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安楽

 

メモ


筑前安楽寺天満宮
★ 安楽寺天満宮略歴 延喜元年(901)右大臣菅原道真大宰権帥に左遷。(実質は流罪、太宰府南館に謫居) 延喜3年(903)道真、大宰府にて没す(59歳)。 延喜5年(905)味酒(うまざけ)安行、菅原道真の祠廟を建つ。即ち安楽寺天満宮が創建される。(「安楽寺草創日記」)  ※道真遺言に「私の亡骸は牛の車に乗せ、人に引かせずに、その牛の行くところに止めよ。」との文言があり、遺言のとおり、   牛が止まったところに道真を葬り、その上に社殿を建てたのが安楽寺の創草であるとされる。 延喜8年(908)藤原時平急死(道真を讒言し筑紫に追放した人物)。雷鳴、日食、地震などすべてが、道真の怨霊のしわざと噂される。  (道真の死後、京都には異変が頻発する。) 延喜19年(919)安楽寺天満宮社殿造営(藤原仲平奉行)。  ※土佐に配流されていた道真嫡男菅原高視は、道真逝去の知らせにおyり、筑紫安楽寺倣い、土佐潮江に安楽寺(現在の潮江天満宮)を  建立する。安楽寺はその後幾多の変遷があるも、現存する。 → 土佐安楽寺 延長元年(923)保明親王や慶頼王らが相次いで死亡。道真の怨霊とされる。  道真は右大臣に復され、正二位を追贈。左遷詔書焼却する。なおこの年筥崎八幡宮創建される。  ※この頃から安楽寺天満宮は隆盛に向かい、寺勢は観世音寺をはるかに凌ぎ、荘園の寄進が相次ぐ。   安楽寺は筑前博多庄、酒殿庄、大浦寺庄、肥前唐津庄など40におよぶ荘園を経営するまでになる。 天暦元年(947)道真孫・僧平忠、安楽寺別当に補任。 永観2年(984)大宰大弐菅原輔正(道真曾孫)常行堂、宝搭院、中門廊、回廊を建立。 その後道真には左大臣正一位、さらに太政大臣が追贈される。 治安3年(1023)藤原惟憲、道真配所跡に道真追善の浄妙院(現榎社)を建立。 明治維新の神仏分離の処置で、天満宮周辺に住む多くの社僧は復飾・還俗や財産処分などを余儀なくされる。 講堂、仁王門、本願寺、法華堂などの建物や多くの仏像などは売却あるいは破壊され、安楽寺は廃寺となる。 「古老の話によれば、仏教的色彩のあるものは一週間で焼き捨てられた」と云う状況であったと伝える。 ★ 安楽寺天満宮の塔婆   :2011/01/21追加: 古記録(「安楽寺草創日記」室町期写・・下掲)、古図( 天満宮境内古図・・下掲)、各種の古絵図(下項に掲載)などによれば、以下の塔婆があったと知れる。 1)宝塔:多宝塔   宝塔院、円融院御願、永観2年(984)建立:「古図」では薬師如来 天満宮境内絵図4(部分図):本殿東南にあり、 当図では下重平面3間、上重平面円形の多宝塔に描かれる。 ◇円融天皇:第64代天皇、天徳3年(959) - 正暦2年(991);   在位は安和2年(969) - 永観2年(984)。  村上天皇第五皇子、母右大臣藤原師輔の娘、中宮安子。中宮は関白藤原兼通の娘媓子、  後に関白藤原頼忠の娘遵子、女御は藤原兼家の次女詮子で、  懐仁親王(後の一条天皇)が皇子である。 2)御願塔院:多宝塔   号西御塔、白河院御願、本尊釈迦・多宝・普賢・文殊・二天、 永宝(保)2年(1082)帥権中納言藤原資仲建立  「古図」では西塔・多宝仏とある。 天満宮境内絵図4(部分図):本殿南西方向・遍知院東にあり、 絵図には全貌がえがれず、形は不明確であるが、多宝塔とある。 ◇白河天皇:第72代天皇、天喜元年(1053) - 大治4年(1129)、   在位:延久4年(1073) - 応徳3年(1087)。 ◇藤原資仲治安元年(1021)-寛治元年(1087)。   藤原資平の次男。権中納言、正二位。のち大宰権帥となる。 3)新三重塔   本尊釈迦・多宝・普賢・文殊、七条女院(高倉後宮・藤原殖子)御願、建久元年(1190)建立 天満宮境内絵図4(部分図):西御塔(多宝塔)南にある。「古図」には三重塔とある。 ◇七条女院:保元2年(1157) - 安貞2年(1228)、高倉天皇の典侍。坊門殖子。 守貞親王(後高倉院)、後鳥羽天皇の生母。  父は従三位藤原(坊門)信隆。建久元年(1190)従三位・准三后、その後立后を経ず女院となり、七条院と呼ばれる。  元久2年(1205年)出家。所領は七条院領と云われる。 4)五重塔   5)九重塔   「安楽寺草創日記」に見えず。 「古図」には五重塔とある。 左記と下の情報のみで、 創建年などは不詳。 天満宮境内絵図4(部分図): 仁王門を入り左手すぐに 五重塔が描かれる。 「安楽寺草創日記」に見えず。 「古図」には花園九重塔・千手観音とある。 花園九重塔とは花園院御願であろう。 ...

天満宮が京都北野社と本末の関係をもたず、安楽寺が天台宗の寺院でありながら、執拗なまでの末寺化攻勢を受けても圃延暦寺の末寺とならなかったことの理由は明らかではなく、また種々挙げられようが、墓廟であったことによる所が大きかったと思われる。