
金剛峯
信長の死で難を逃れた高野山金剛峰寺(真言宗)
最後に高野山金剛峰寺についてです。信長は延暦寺は焼き討ちされ、石山本願寺も焼失した。その後標的にしたのがこの金剛峯寺です。
開祖は空海。彼も延暦23年(804年)に最澄と共に遣唐使に選ばれ、青龍寺で密教について学びました。エリートの最澄とは違い、空海は31歳頃にようやく東大寺で正式に僧に認められています。遣唐使だった頃は無名だったようです。
帰国後、嵯峨天皇より和歌山の高野山に「金剛峯寺」を建立することを認められましたが、工事がはかどらず、京都の東寺を下賜され、「真言宗」の本寺に定めています。東寺は鎌倉時代以降、教王護国寺とも呼ばれます。そのため真言宗は「東密」とも呼ばれるのです。空海は「弘法大師」とも呼ばれます。
最澄は密教については、空海ほど深い知識がなかったようで、空海から教わったとも伝わっています。嵯峨天皇、橘逸勢と並ぶ「三筆」に数えられるほどの達筆ぶりで、「弘法も筆の誤り」ということわざが有名です。
真言宗の総本山は東寺で、金剛峯寺は末寺となります。金剛峯寺は、高野山真言宗の総本山です。当初、東寺との確執もあって金剛峯寺は衰退していきますが、長和5年(1016年)ごろから再興され、藤原道長が参拝して以降、上皇らも参拝に訪れ、大いに栄えるようになりました。
金剛峯寺は空海の没後に完成しています。武士が台頭して以降は、出家する場所にこの高野山が選ばれることが多かったようです。
戦国期の金剛峯寺は延暦寺同様、僧兵による巨大な武力を有していましたが、やはり信長とは敵対していくことになります。
信長の有力家臣だった有岡城城主・荒木村重は、天正6年(1578年)10月に謀叛を起こして籠城しますが、結局は敗北して妻子を捨てて高野山に逃げ込みます。
天正9年(1581年)に金剛峯寺は荒木村重の家臣らを匿い、探索に来た信長の使者を殺害。 このため、信長は報復行動に出て、全国にいる高野山の僧侶を数百名捕らえて処刑しています。
その後、信長が数万の兵で高野山へ攻め入り、金剛峯寺は窮地に追いやられますが、ちょうどその頃に「本能寺の変」が勃発して信長が横死したため、難を逃れることができました。その後は天下統一事業を継承した秀吉とも揉めていますが、最終的には和解して存続を許されています。