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熊野

熊野別当
 
 
 
 
伊雑宮 - Wikipedia
皇大神宮( 伊勢神宮内宮)の別宮の一社。 度会郡 大紀町の 瀧原宮とともに、「 天照大神の遙宮 (とおのみや)」と呼ばれる。2013年(平成25年)の年間参拝者数は93,267人。 「いぞうぐう」とも呼ばれるほか、「磯部の宮」・「磯部の大神宮さん」とも呼ばれる。 「 伊雜宮 」と書くのが正式だが、「雜」は常用漢字体で「雑」と表記することが多い(本項では後者を用いる)。 伊雑宮は 内宮(皇大神宮)別宮で、内宮背後の 島路山を越えた志摩市磯部町上之郷にある。伊勢神宮別宮14社のうち 伊勢国外のものは伊雑宮( 志摩国)のみ。また 神田 を持つ唯一の別宮である。 当宮は、10社ある内宮別宮の中で 荒祭宮、 月讀宮 、瀧原宮に次ぐ順位とされる。 一般に、伊雑宮を志摩国 一宮とする。しかし、志摩国一宮は 鳥羽市の 伊射波神社 (いざわじんじゃ)とする異論もある。 明治以降、 式年遷宮のための お木曳行事が 伊勢神宮に準じ20年に一度行われる。正宮では1年次と2年次の2回であるのに対し、瀧原宮と伊雑宮の別宮2社では1年次のみである。第62回神宮式年遷宮の伊雑宮御木曳は 2006年(平成18年)4月16日に催された。第61回までは志摩市の磯部地域内のみだったが、合併による志摩市誕生により、この第62回では同市中心部の阿児地域内でも初めて曳かれることとなった。 お白石持は 2014年(平成26年) 11月22日に、 遷御は同年 11月28日 午後8時にそれぞれ執行された。 他の境外別宮と同様、 神職が参拝時間内に常駐する宿衛屋(しゅくえいや)があり、 お札・ お守りの授与や、 神楽や 御饌 の取次ぎを行なう。 鳥居前町には鰻料理店・ 中六 や神武参剣道場、伊雑宮のおもてなし処・御師の家などがある。 804年( 延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』では天照大神御魂とされる。中世から近世の祭神には諸説あり、中世末以降は伊雑宮神職の磯部氏の祖先とされる
平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)では、伊勢平氏の地盤だった伊勢国への源氏勢の侵攻が予想され、伊勢志摩両国を平家が警備した。養和元年(1181年)1月、伊雑宮は源氏の味方となった紀伊の熊野三山の攻撃を受け、本殿を破壊され神宝を奪われてしまう。熊野三山の勢力はさらに山を越えて伊勢国に攻め込むが、反撃を受け退却した。1159年の平治の乱では平家に味方した熊野三山が、治承・寿永の乱では源氏に味方した理由として、当時の熊野三山と対立した伊勢神宮を平家が優先したためとされるが、この事件により、神職が権力者の庇護を得るために歴史の捏造を行ったとする説がある。
 
 
 
 
中世の修験道には、その聖護院を本寺とする本山派と、醍醐寺三宝院を本寺とする当山派(とうざんは)とがあり、両派の対立と研鑽の中でそれぞれの活発な活動が続けられていた。
その本山派は、熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の熊野三山を拠点とする天台宗系の修験であり、寛治四(1090)年に白河上皇が熊野詣を行なった際にその先達をつとめて熊野三山検校(けんぎょう)に任ぜられたのが園城寺(おんじょうじ)の増誉(ぞうよ)であったという由緒を伝えている。
その一方、当山派は、吉野の金峯山、大峰山を拠点とする山岳修験者たちの一派で、真言宗の聖宝(しょうぼう)(832~909)を開祖とする醍醐寺の三宝院を本寺とし、吉野大峰山中の小篠(おざさ)、現在の奈良県天川(てんかわ)村洞川(どろがわ)の地を拠点に結衆して、全国各地に展開していた。
そのような修験道の始祖とされるのが、飛鳥時代の山岳修験者の役行者(役小角)であるが、柳田國男はその侍者であった前鬼と後鬼にちなむ家筋や地名が吉野山中には多く残っていることなどを指摘して、そのような山岳修験の歴史の根本に、里人たちからは鬼と呼ばれた山人たちの存在があったと指摘している。
そして、その山人たちのもっていた異様な身体的な力、宗教的な験力への信仰がもともとあったのであろうと指摘している。