
熊野
熊野別当
平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)では、伊勢平氏の地盤だった伊勢国への源氏勢の侵攻が予想され、伊勢志摩両国を平家が警備した。養和元年(1181年)1月、伊雑宮は源氏の味方となった紀伊の熊野三山の攻撃を受け、本殿を破壊され神宝を奪われてしまう。熊野三山の勢力はさらに山を越えて伊勢国に攻め込むが、反撃を受け退却した。1159年の平治の乱では平家に味方した熊野三山が、治承・寿永の乱では源氏に味方した理由として、当時の熊野三山と対立した伊勢神宮を平家が優先したためとされるが、この事件により、神職が権力者の庇護を得るために歴史の捏造を行ったとする説がある。
中世の修験道には、その聖護院を本寺とする本山派と、醍醐寺三宝院を本寺とする当山派(とうざんは)とがあり、両派の対立と研鑽の中でそれぞれの活発な活動が続けられていた。
その本山派は、熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の熊野三山を拠点とする天台宗系の修験であり、寛治四(1090)年に白河上皇が熊野詣を行なった際にその先達をつとめて熊野三山検校(けんぎょう)に任ぜられたのが園城寺(おんじょうじ)の増誉(ぞうよ)であったという由緒を伝えている。
その一方、当山派は、吉野の金峯山、大峰山を拠点とする山岳修験者たちの一派で、真言宗の聖宝(しょうぼう)(832~909)を開祖とする醍醐寺の三宝院を本寺とし、吉野大峰山中の小篠(おざさ)、現在の奈良県天川(てんかわ)村洞川(どろがわ)の地を拠点に結衆して、全国各地に展開していた。
そのような修験道の始祖とされるのが、飛鳥時代の山岳修験者の役行者(役小角)であるが、柳田國男はその侍者であった前鬼と後鬼にちなむ家筋や地名が吉野山中には多く残っていることなどを指摘して、そのような山岳修験の歴史の根本に、里人たちからは鬼と呼ばれた山人たちの存在があったと指摘している。
そして、その山人たちのもっていた異様な身体的な力、宗教的な験力への信仰がもともとあったのであろうと指摘している。